クラブ・委員会ひろば
宇都宮くんの凱旋授業
宇都宮祐くんは文化祭実行委員会(以下文実)のOBだ。平成3年卒なのだが、文実OBの中では98代と言った方が通りが良い。
彼の在学時は海城の百周年事業で校舎の建替えがあり、プレハブ校舎だったり工事中だったりと、やや落ち着かない時期だった。その逆境を乗り越えて海城祭を成功させたこともあって、98代はとびきりたくましく、良い仲間意識のある代であったと記憶している。
その宇都宮くんが海城で授業をする、という情報をくれたのは宇都宮くんの同期の遠藤行泰くん、それとも塩田顕二郎くんからだったろうか。同時に両方からだったかもしれない。感染対策をきっちりしたうえで、ちょっと様子を覗かせてもらった。
授業の様子はもう少ししたら発行される会報「海原」において、遠藤くんがエッセイでまとめているので、ここでは触れないでおく。宇都宮くんが後輩の海城生たちに語る様子は、その昔、戸山公園でミーティングをしていた時と同じテンションで、感慨深いものがあった。
遠藤くんのエッセイに使えるかもしれないと思って温めておいた宇都宮くんの画像は紙面の都合ではみ出してしまったので、この投稿で使わせてもらうことにする。また、遠藤くんがエッセイの第一稿で書いていたものの、紙面の都合で割愛されてしまったエピソードをコピペさせていただきたいと思う。
「タスクはお弁当を2つ持って登校した。家から持って来るものと駅で女の子から渡されるもの。弁当を持たないクライメイトに後者を全く手も付けず差し出すのを目撃し、人道的にそれはいかがなものかと私は作文に書いた。
女子からモテる男らしさがタスクにはあった。これは目撃していないが、保善高校のヤンチャな生徒に絡まれた時「一番強い奴を出せと!」と言って、水戸黄門の印籠のように生徒手帳をかざし「宇都宮祐だ!いつでも来い!」と捨て台詞を吐いたという伝説が伝わってきた。」
昭和の色がまだ残る平成の初めのころの高校生は、このような感じだったかもしれない。
私自身は宇都宮くんの4学年上のため、同時期に海城に通ったことはない。それでも、当時の海城祭は現役の文実とOBたちが一緒になって作業をしていたため、共有できる思い出が多い。これは人生の宝物だ。
98代文実OBたちもそろそろ50才。同期からは何人も日本を支える人物を出している。あの時の彼らの情熱を考えたら、そういう人物が出るのは当然と思うし、あの輝きに負けず劣らずまぶしい今の現役の文実を見ていると、どれだけ伸びていくのだろうと楽しみな気持ちでいっぱいになる。
今年の海城祭は第130回。コロナが落ち着くようなら秋にみんなで集まりたいと考えている。
文化祭実行委員会生徒会OB会元会長 国井信男
リニューアル以前の記事は旧 広場で見られます。